menu menu

京都大学経済学部同窓会

Kyoto University Faculty of Economics Alumni Association

075-753-3419

【受付時間】平日10:00~16:00
※水・土日祝は休み

東京支部
Tokyo

第59回経済懇話会の報告

第59回経済懇話会は、Zoomを用いたオンライン形式で、2022年7月16日(土)午後1時から、荒木隆司常務理事の司会により開催された。講師は、本同窓会の会員でもある日本総合研究所副理事長の山田 久氏。「わが国賃金低迷の背景と処方箋」と題した講演をお聞きした。講演のあと、質疑応答と相亰支部長の閉会の挨拶があり、午後3時に終了した。参加者は50名であった。

講演要旨:「わが国賃金低迷の背景と処方箋」

日本の賃金はなぜ上がらないのか

岸田政権下で再び賃上げが注目されている。岸田政権は、「新しい資本主義」というスローガンのもと、「人への投資と分配」をキーワードに賃上げを重点課題として位置づけている。
賃上げを実現するには、まずは賃上げにまつわる二つの「誤解」を解いておく必要がある。第1は、「労働生産性の低迷が賃上げのハードルになっている」という誤解である。実は、日本の時間当たり労働生産性はそれなりに上昇しており、わが国の「現場力」「品質力」は世界最高レベルにある。生産性が向上しているにもかかわらず賃金が上昇しないのは、成長のみならず分配にも目配せが必要なことを示している。
ただし、生産性上昇に見合って賃金が上昇せず、安易な人件費削減が返って不採算事業を存置させ、もっと高めることのできるはずの生産性の向上を阻害している点は無視できない。生産性上昇率の高い米国やスウェーデンでは事業構造転換に伴って雇用構造も大きく転換している。
第2は、「賃上げは産業空洞化をもたらす」という誤解である。確かに2000年代には、日本の賃金水準は国際水準でも高く、円建てベースで低迷してもドル建て上昇しており、賃上げは台頭する韓国との競争を不利にしたり、中国への生産シフトを助長するリスクがあったといえる。しかし、2010年代に入って以降状況は一変した。円高是正でドル建て賃金は下落し、購買力平価ベースで韓国を下回ることになった。むしろ賃金が低いことが優秀な人材の海外流出を招き、産業競争力を低下させる恐れの方が大きい。
では、賃金が上がらない真因はなにか?国際比較すれば、物価低迷と賃金低迷の同時進行がわが国の特異性であり、その背景には、①賃上げ圧力が弱いこと、及び、②コスト競争が激しいことがある。 賃上げ圧力が弱いことはわが国雇用システムの特徴であり、企業内組合の持つ性格から賃金よりも雇用を重視するという行動様式に起因している。賃上げ圧力が弱いわが国雇用システムの問題(正社員の雇用維持優先)は、正規・非正規格差や男女格差を通じて賃金低迷の原因にもなっている。
国際比較をすれば、女性やシニアの相対賃金が低いことが、近年の女性・シニアの雇用シェア上昇のもとで、賃金全体の水準を押し下げる要因になっている。これは女性・シニアで非正規労働者が多く、正規・非正規賃金格差が大きいことと密接に関連している。
女性の賃金が低いのは、女性が短期雇用かつ短時間雇用で、周辺的な仕事が多く、キャリア形成が困難なことに加え、企業の人材投資インセンティブが低いことが影響している。また、シニアの低賃金は、日本型雇用慣行のもとで定年制度が存在することが影響している。
こうしてみれば、日本型雇用慣行(終身雇用・年功賃金・企業内組合)は、正社員の賃金要求を抑える方向に働く点のみならず、人口動態の変化のなかでますます重要度の高まる、女性・シニアの活用・育成の足枷になることでも、賃金を抑える方向に作用しているといえる。
コスト競争が激しいのは、既存事業分野で多くの企業がひしめき合っているため。背景には、大手における事業再編の遅れと中小企業の保護政策、とりわけ中小企業部門では不採算企業・赤字企業の退出がなされない中で、人材投資不足⇔低生産性⇔コスト削減のループに陥っている。
中小企業での平均的に少ない人材育成機会が低生産性の背景にある。中小企業での人材育成の不足は、わが国では企業横断的な能力開発インフラが未整備なもとで、中小企業では従業員の流動性が高く、「良い雇用維持」が少ないことによる面が大きい。

改めてなぜ賃上げが必要か

元来、賃上げには様々な意義がある。マクロ的な観点では、1)内需拡大の原資⇒個人消費拡大効果、2)物価の決定要因⇒物価安定化効果、3)政府収入の源泉⇒社会保障安定化効果の3つの効果がある。 経営的観点からは、1)働き手のモチベーション向上、2)事業構造転換へのプレッシャー(不採算事業の整理圧力)という意義がある。
コロナ禍を経て、ロシアのウクライナ侵攻後の情勢変化のもとで日本経済が今置かれている状況を勘案すると、賃上げの必要性は一段と高まっている。
根拠の第1は、資源・一次産品高という投入価格の上昇のもとで世界的にインフレ圧力が強まる中で、企業にとっての投入価格が高まり、最終販売段階での消費者向け販売価格にも転嫁が進むが、それはエネルギー・食料など生活必需品分野が主であり、その他分野の消費者物価の上昇率は低いままで、多くの企業の交易条件は悪化している。消費者が生活水準を維持するには賃上げが必要な一方、企業にとっても消費者が総じて値上げを許容できる環境を作るには持続的な賃上げが不可欠になる。
根拠の第2は「悪い円安」の回避である。企業の投入コスト上昇の背景には円安もある。経済好循環・デフレ脱却が不十分なもとでは超低金利政策の見直しは難しく、内外金利差が拡大して円安が一段と進み、投入コスト上昇に拍車がかかる。化石燃料高のもとでの円安は経常収支の赤字化リスクを惹起し、それは政府部門赤字を国内資金余剰でファイナスすることを困難化する。超低金利政策を終了させるには、日銀BSの健全性確保への対応も含め、利払い費増で財政赤字が発散しないよう、財政再建に道筋をつけることが必要である。
経済好循環・デフレ脱却、財政再建には、いずれも名目賃金の引き上げが不可欠である。
求められるのは「量より質」の内需主導成長モデルである。
一段と進展する人口減少・外需減速・供給制約経済下での新しい成長モデルとは、「大量生産・大量消費・低価格」経済を是正し、「適量生産・適量消費・適正価格」経済を構築することであり、そのためにはDXを駆使することが必要である。多様な顧客に真に有用なものを適切・適量・適正価格で提供できるビジネスモデルの創造が課題であり、消費者に真に支持される商品・サービスを厳選して、それらを適正価格で適量販売するビジネスモデルへの転換が必要である。適量生産によりエネルギー効率を高めれば、資源エネルギー高の有効な対応策にもなる。消費者サイドをみても、価格志向は依然根強いものの、環境・社会、健康などの価値を重視する傾向が強まってきている。

安倍政権下「官製春闘」の教訓

「春闘」の意義は何か。戦後わが国の労働組合は企業内を基本とし、欧米のような産業別組合を基本とする形にはならなかった。これによる交渉力の弱さを補うべく1950年代半ばに形成されたのが「春闘」である。元来、賃金決定に政府が介入するのは禁じ手であり、米国流の「労働市場(転職行動)」あるいは欧州流の「労使自治(労使交渉)」といった民間部門内で決まるのが原則だが、わが国では双方の仕組みが未整備。その意味で、現状、春闘以外に賃上げを実現する仕組みはなく、安倍政権が賃上げ推進に向けて春闘に注目したことは正鵠を射ていた。
安倍政権下のいわゆる「官製春闘」は、2013年9月に「政労使会議」が設置されたことを起点とし、その成果として2014年の春闘賃上げ率が15年ぶりに2%台を回復。2015年には賃上げ率の加速が見られたが、その後は伸び悩み、コロナ下の2021年春闘では再び2%台を下回った。この間、一人当たり賃金は横ばいないし微増にとどまり、安倍政権の賃上げ政策は失敗であったとの声もある。しかし、時間当たり賃金では増加傾向が認められ、賃金全体の伸び悩みは人手不足の強まりによる労働時間の短い非正規労働者の増加による。官製春闘はじめとする安倍政権の賃上げ政策は、少なくとも「賃金は上がらない」状況を変えた面で一定の成果があったが、もっとも、その成果が十分でないことは否定できない。
「官製春闘」が十分な成果を得られなかった背景には、「ベア統一要求」と「パターンセッター方式」とを2本柱とする従来方式の限界がある。90年代前半頃までは、元来組合員の賃金表全体の上方シフト意味する「ベースアップ(ベア)」には、労働者全体の賃金を増やす効果があった。しかし、非正規雇用比率の上昇や賃金制度改革(成果主義化)により、賃金決定の個別化が進み、ベアの実態が変質した。組合サイドでも賃上げ額の職種や年齢層による差を許容する「賃金改善」という用語を使用することになった。そうしたもとでの「官製春闘」におけるベア実施要請は、現場を当惑させた面があった。
80年代には、パターンセッターの一角を担った大手自動車メーカーの賃上げが全体の賃上げに波及した。90年代後半以降、その構図が崩壊したにもかかわらず、「官製春闘」ではその構図を前提に大手自動車メーカーに対する賃上げの期待が増大した。そうしたなか、トヨタ労使はベアを非開示とし、賃上げ要求方式を職位・職種ごとの賃上げに方式に変更した。
「パターンセッター方式」が機能しなくなった背景には、1980年代までの「フルセット型産業構造」が崩壊したことがある。海外生産シフトや事業の絞り込みにより、大企業の売り上げ増が国内の中小企業への受注につながる度合いが低下した。中小企業は受注に必要な価格競争力を維持するため賃金の抑制を継続。
この構図を打破するには、中小企業部門の下請け構造脱却と取引価格の適正化を進めることが不可欠。中小企業保護政策の見直しを進めるほか、2020年に始まった「パートナーシップ構築宣言」の仕組みを広げるとともに、公正取引委員会による優越的地位濫用への取り締まり強化が必要である。

春闘の再構築と賃上げ立国への途

労働分配率は、特定産業を除けば、歴史的低水準にある。手元流動性もリーマンショック時をはるかに超え、80年代以降でも最も高い水準にあり、総じて財務状況からみた企業の賃上げ体力は十分にある。
コロナ・パンデミックの影響については、感染力の向上や更なる変異の可能性から楽観視すべきではないものの、ワクチン接種率の向上や治療法の進歩等により重症化率の低下がみられるなか、経済活動を引き上げていくことが可能な状況にある。デジタル化や脱炭素化などアフターコロナの経済社会の方向性が見え始めており、企業としては、繰り返される感染の波に過度に翻弄されることなく、将来に向けた事業改革・投資強化に注力することが重要。実際、企業の設備投資意欲は堅調であり、それと並行して、従業員のモチベーション強化のため可能な限り賃上げに前向きに取り組むべきである。

最低賃金引き上げの効果

政府は賃金底上げ政策の一環として最低賃金の引き上げに注力している。最低賃金引き上げは、企業の生産性向上を促すというのが根拠になっているが、もっとも、実証研究によればその証拠は必ずしも十分でない。欧米の経験からは生産性向上策との連携が重要で、これまでの持続的な賃上げの結果、中小企業への影響も大きくなってきており、丁寧な対応が求められる段階になっている。英国では、雇用への影響を極小化するために、労働者の熟練度(年齢)に応じて複数レートを設けているほか、専門委員会を設置し、データ・根拠に基づく納得性の高い決定メカニズムを実践している。

ポストコロナ時代の新春闘の構築

賃上げ実現に向けた政策の主軸に位置付けるべきは「春闘の再建」である。元来、賃金決定に政府が介入するのは禁じ手であり、米国流の「労働市場(転職行動)」あるいは欧州流の「労使自治労使交渉 」といった民間部門内で決まるのが原則だが、わが国では双方の仕組みが未整備。春闘はこれを補うために戦後日本で構築された独自の仕組みであるが、1990 年代半ば以降機能不全に陥った。いまのところ春闘を再建する以外に賃上げの仕組みはなく、環境変化を踏まえた 新たな春闘の形を再構築する必要がある。
新春闘で目指すものは以下の三つである。
第一は、パイ拡大と成果配分の議論の一体化(成長と分配の好循環)であり、時代が要請する産業構造転換を促進するため、個別企業の枠を超えた産業全体・社会全体での雇用安定化の仕組み (雇用シェアなど新たな手法を用いた、 日本型の失業なき労働力移動の在り方) を整備するとともに、新しい成果配分の在り方として、生産性に見合った持続的賃上げと成果主義と底上げを組み合わせた新型ベアを創造することである。
第二は、複数年目標の採用である。
2022年春闘で一気に転換するのは非現実的であるので、年1回の春闘の慣例は堅持しつつ、賃上げを数年(例えば3年)単位で決める方式に転換すべき。そのうえで、目標賃上げ率を年平均2%とする一方、年平均1%・3年間で3%などといったボトムラインを設定し、ボトムラインが達成できなければ次年にロールオーバーしていくとよい。
第三は、政労使会議の再開と第三者委員会の設置である。
政労使会議を再開し、産業横断的な全国レベルで労使間の合意形成を行い、様々な環境整備のための議論を進める。同時に賃上げを後押しすべく、賃上げの目安を示す第三者委員会を設置する。
第三者委員会のイメージは以下のとおり。
労使双方が信頼する経済学者の重鎮を座長とし、労働側及び使用側推薦の経済学者、エコノミスト2名ずつ、 計5名から構成。
事務局を設置し、関連省庁の人材のほか専門研究者や労使の団体からの出向者によって構成。 中立的な立場で労働分配率や労働生産性などの基礎統計を整備すると同時に、客観的な分析に基づく中期的な望ましい賃金上昇率の目安を一定レンジで、その客観的な根拠ととともに示すことをミッションとする。
この事務局案を目安委員会がチェックし、毎年、春季労使交渉の5カ月前を目途に公表。事務局のもう一つのミッションとして、定期的なセミナーやシンポジウムを各種関連団体と連携して開催し、労使間の共通認識を広く醸成する機会を積極的に設ける。
第3者機関を有効に機能させるためには、 政労使の首脳が参画する会議体を設置し、労働生産性引き上げ策・物価体系全体のマイルドな上方シフト誘導策と一体で実施することが不可欠。さらに、主要産業ごとに政労使会議の分科会を設け、望ましい賃金上昇率の目安をベースに業界の状況も踏まえて、業界の目安を公表することが望ましい。
持続的賃上げの実現には、1)政労使会議の再開と第三者委員会の設置による賃上げドライブの創出のほか、2)賃上げ原資である付加価値生産性の底上げ的向上を可能にする、地域別・産業別にブレークダウンした産業構造転換・労働移動・人材教育の一体政策、3)賃金増を消費増につなげる社会保障改革、がセットで行われる必要がある。
これらをパッケージ化し、「70歳現役・賃上げ2%」を実現する『生涯賃金3割増プラン』として実施すべきである。

(文責:専任理事 奥田久美)